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2008年4月14日 (月)

ヤツの抵抗に、、、ありがとうー

今日の朝、ちょいと近くの実家へ届けるものがあって、外を歩いた。
ちょうど、保育園?幼稚園?に行くお母さんと大先生達(子供達です〜)とすれ違う時間帯だった。

僕の部屋の前の坂でも、一年生になったちっさい先生達が列をなして帰っている姿を見る。
なんか自然に、笑いに近い笑顔が出てしまいますなー
ちっさいのが、しかもたくさんのが、楽しそうに、坂をあがったり、おりたりして〜〜
かわいいな〜〜っていうより面白いな〜〜って感じです。笑

見るたびに「私も自由であり続けます!!」と誓いたくなるくらい楽しそうにしてます。
すばらしいですなー


しかし!!
今日はまたまた見てしまった。

ちょうど保育園?幼稚園?の近くに来たときだった。
「きゃ〜〜〜〜!きゃ〜〜〜!」って子供の泣き声(叫びにちかいっす)が聴こえてきたんです。

「おっ、またきたかー」って感じで、その方を見たんですな。
形としては、お母さんが、その叫んでいる子供を「活きカツオ」でもかかえる感じで抱きかかえて、園の方に歩いているわけです。
まあ、その形として推察できるのは、単純に子供が園に行きたくなくて、泣いているけどお母さんはかまわず連れて行っているってことですかね。
で、ホントにそうなわけです。

僕が行く方向も園の方なので、ちょうどその親子の横を通ることになっていた。

その子はやはり、かなりの抵抗を見せていてカツオのようにじたばたしているので履いていた長靴も片方脱げて落ちてしまっていた。
別のお母さんが「どしたの〜?」って感じで拾っていた。

泣きわめいている子に、お母さんもなんて言ってるかわからん感じで「きー!」ってなっていた。
しかし、その大先生は決してあきらめる気配はなかった。
まわりに他の親子がいても関係ない。
その気合いに僕はまた「グッドラック!!」と心で伝えさせてもらったのだ。

その時、その子がちゃんと言葉で訴えているのに気がついた。

「きょうはーおやすみにするーーー!!!おやすみにするのーーーーーー!!!」と言っていたのだ。

僕は「あ、あ〜〜〜!やすみたいんだーー!」
、、、いや、まあ、そうただ聴こえただけなので、そう受け取るしかないのだが、、、、、。

しかし!!
お母さんには通じていない!!
お母さんは「大丈夫だから!!ね!ね!」と言っている。

「お休みしたいーーー大丈夫だからねーーー」
おいおい、、、会話になってねーよ。
完全なすれ違いじゃんよー笑

思わず歩きながら、笑いそうになってしまいました。
それと同時になんだかへんな感じなのだ。

だって、ちゃんと双方言葉を発して、、、、そんなにも強烈に意思を伝えているのに、まったく!!すれ違っているーー
やべーーー

「お母さん、、、(僕と同じくらいの歳の人だと思います)、、、その子の訴えを聞いてあげられないんですか?」
「なんで行きたくないの?って」
「お母さんの事情を、、、気持ちをちゃんと話してあげていますか?」

僕も小さい頃、母親がちょっとでもいなくなると、泣いて泣いて大変だったと叔母に言われることがある。
だからその子もお母さんと離れるのが寂しいから、嫌がっているのかもしれない。
それにお母さんもその後お仕事があって忙しいのかもしれない。
だからどうしても、その場で離れないとだめなのかもしれない。

「寂しいのなら、一緒にいてあげたらいいじゃないですか」
「その子はお母さんとしっかりコミュニケーションをとりたいと思っているんじゃないんですか?」

その子と一緒にいるために働いているって言われるかもしれないが、、、、
そのスタート地点で、いきなり一緒にいないじゃないっすか、、、、

、、、ま、そんなこと言ったって、本当に僕が簡単に語る事なんかできないほどの事情もあるのだろう。
だから、僕はそのまま通り過ぎることになるわけだが、、、、、

やはりまた、考えさせられる。

親子なのに、なんであんなにすれ違っているんだろう?って。
親子とはいえ、それぞれ価値観が違うからもともとすれ違っていると言ったら、その通りだろう。
しかし、親子はその価値観の違いを一番尊重しやすい間柄ではないか?
でもそれが完全に封じられていた。

いやいや、、まだちっさいでしょーって言うかもしれないが、そこからして一緒のところに居ないことを白状している。
小さいから話しても無駄だと思っているなら、、、、困ったもんだ、、、
わかるわけないでしょ?って思っているのはこちら側だけだ。
子供達はちゃんとわかっている。
僕らが知っている言葉をまだ知らない、、僕らだけ!がわかるシステムでのコミュニケーションをまだ知らない、、、だけだ。

って、僕らだって、なにかそのひとつの事柄について知っているのか?と言われたら、かなり怪しいものだ。

そもそも違った目線から、発想して、動いているから、すれ違いすぎている状態もあたりまえなわけです。

しかし、それは本当に残念だ。


やはり何かの枠にはめた中での発想なのだ。
だから、お母さんは「園に行かないと!」ってなっている。
「よし!今日はおやすみだーー!」ってならない。

、、、なんで?
いろいろ理由があるからだ。

「でもその理由って、その子と心が離れるとしてもやるべきことなんですか?」


前にもこんな感じで書かせてもらったが、そんな光景の中のお母さんの顔はとてもじゃないけどイキイキしているとは言えない。
「もう!」って感じで、仕方なく、、、面倒くさそうにしている。

それがあまりに長く続くと、、、、その子に対しての気持ちが大きく変化することになる。

相手にしたくなくなって、、、、でも子供はこっちに来る。
しまいには、親の方がキレる。


おいおい親子でキレすぎじゃねーー?

そりゃ〜親子なので、喧嘩があったっていいと思う。
でも今世間で起きている喧嘩は、僕に言わせれば、かなり中途半端だ。
てめーの半分しか見せないで喧嘩している。
そんなんじゃー、いつまでたっても納得できないし、またいつか同じ喧嘩をすることになる。

喧嘩はコミュニケーションのひとつだ。

(最近、聞いた話だが、ある公園があって、そこはいろんな事が自由で、係の人が数人いる状態で火も扱えるところらしい。
そこでは子供達が喧嘩しているのをとめないそうだ。だたし物を持った戦いは係の人がとめるらしい。最初、その光景(喧嘩)を見ると大概の親は目が点になるそうだ。)


この中途半端は明らかに僕ら大人の生き方に関わっている。

大人達が真正面からコミュニケーションをすることを怖がっているのだ。
子供達はそんなこと関係ない世界にいるので、大人達はそれをできてしまう子供達にびっくりしてしまうわけだ。
そして、自分たちが見た事のない世界なので、自分たちが対応できるように修正するのだ。

そんなこんなで、だんだんと自分の本心を隠し、まわりに対応するための心を持つことに専念する。
ン〜〜
それってどうなの?
本当に子供達に伝えたい生き方なのか?生き様なのか?
それで本当にみんなが幸せだーってなっていればいいが、現実、そうなっていない。

今日の朝のあの大先生の抵抗で、改めてコミュニケーションの、、、全体でのコミュニケーションの大切を教えてもらった。
そして、全体でやりとりするためには、まさに自分の生き方そのものが、僕の心の全体から動かなくては意味がないと改めて感じた。


まさに全身を使い、全霊で訴えていたアイツのように。

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2008年4月13日 (日)

真実

それぞれの真実がある。

その真実から目をそむけたとしても、決してその真実は消えない。
目をそむけていることで、本当に見たいものさえも見えない。

目をそむけていると、それが癖になり、いずれ麻痺してくる。
自分が目をそむけていることさえも忘れてしまう。

しかし、真実はいつも自分のそばにいる。

そして
その真実とは、自分のあるがままの姿なのだ。

そこにすべての過去を生かす方法と、未来が存在しているのだ。

真実から目をそむけることは、その未来にふたをし、過去を亡き者にすることなのだ。

なぜ?
それをしようとするのか?

そこで、なにをしようと言うのか?
もう十分にやってきたことではないのか?

もうやめた方がいいと感じていることではないのか?


でも、やめられない。


いずれ、自分からやめることになるのに。

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